経験人数60人超えの女より、#metooと『先生の白い嘘』に寄せて

事務次官山口達也メンバーの話が世間を賑わせてます。
大ニュースですが、ヤフコメやtwitterを見ていても、これほどジェンダー論的な見方が盛り上がると思っていませんでした。びっくり。
詩織さんの時はハニトラだろみたいな否定的意見が多かったのに、タイミングなのかな。はあちゅうさん達がやってる#metoo 運動もあって、時流がよい方向に向かっているのかな。アラーキーのミューズの方が発表した文章は衝撃的でした。メディアで全然取り上げられないところに闇を感じましたが。

何であれ、性暴力についていろんな意見が交わされること、その意見を多くの人が目にて考えるきっかけになることはいいことなんじゃないかな、と。

 

この文章を書こうと思ったきっかけは、実は#Metooでも事務次官事件でもないです。
『先生の白い嘘』という漫画に出会ったことです。
親友の恋人にレイプされた女性教師が主人公ですが、登場人物が皆、自分の性に怯え、苛まれている話です。
この漫画を買って立ち寄ったドトールで読み始め、涙が止まりませんでした。トイレに駆け込んで、呼吸を整えながらトイレットペーパーで目を拭って、読みきれずに家に帰りました。
忘れていた自分の過去をイラストに起こして突きつけられたようで、この漫画のこと、自分のことを受け入れるのにかなりの時間がかかりました。

友人にも、親にも、カウンセラーにも話せなかった私のことを、このタイミングであれば共感してもらえる誰か、必要としている誰かに届くかもしれないと思って書きます。ブログどころか、日記も書いたことがない人間なので、読みづらい文章かもしれません。

 

私は20代ですが、経験人数は三人分の両手両足の指をとうに超えています。
SNS、バー、クラブ、居酒屋、路地裏。
出会いは様々ですが、私がセックスをする条件はひとつ。
私の身元に辿り着けない相手、というだけです。だから、教えるのは偽名だし、パーソナルな連絡先の交換もしません。

私は、セックスが好きではありません。
触られれば濡れるし声も出ますが、それは生理的反応です。
男性が腰を振っている間、私の頭の中に浮かぶのは「早く終わらないかな」とか、「天井の染み、犬に見える」とか、「そういえば明日はゴミの日だな」とか。セックスで快感を得たことはありません。
冷えた自分が、男性の求める反応をする自分を見下ろしています。
射精させて、適当に会話をして、別れて。
またしばらくすると、相手を探しにSNSを漁ります。

 

ずっと、不思議でした。なぜ、好きでもない男と好きでもない行為をしに、自ら夜の街へ向かうのか。
自分が何を考えているのかわからなかった。貞操観念がないのか。生まれついての淫乱というものなのか。ずっと、私は私がわからなかった。

その理由のはじっこを、『先生の白い嘘』を読んで、初めて掴みました。
掴んだものを手繰って、心の奥底で何重にも鍵をかけられていた傷に辿り着いて、その傷を初めて直視することができました。

ちゃんと書けているかな。書きたいことが溢れ出てくる一方で、感情を上手く文章にすることができなくて、何度も何度も書き直しました。
読んで頂いている方には不親切かもしれませんが、綺麗な表現にまとめるよりも、少し乱れてでも、自分の中に見つけたものをまっすぐ書ききりたいと思います。
私がヘテロセクシャルである都合上、LGBTの方には不快な表現があるかもしれません。何卒ご容赦ください。

 

私は、ずっと「自分が女であること」を否定していました。
トランスジェンダーなどの身体的なことではなくて、ジェンダー的な面で、です。

私が取った戦略は、「女を捨ててるやつ」になることでした。
私服はジーンズにTシャツみたいな飾りっ気のない服装。メイクはしない。髪の毛はショートカット。男子に混じってわいわい騒ぎ、パンツを見られてもネタで返す。キツめの下ネタも大丈夫。当然、彼氏がいたことなんてないし、恋愛対象にもならない。
好きな人ができたことはありましたが、恋愛なんていう、自分が女だと自覚する行為をできるわけがない。
なにしろ、女というポジションから逃れることに全力を使っていたので。
男子からすると面白いやつだし女子からするとライバルになり得ないから、男女問わない人気者のポジションも得て(自分で書いてて恥ずかしい)わりと楽しい学校生活でした。

その原因は二つありました。ひとつは家族との関係です。
私は、「女だから」という理由でコミュニケーションを拒否されて育ちました。

「女には分からない」「これだから女は」「男にしか分からないことがある」。
性別を盾に主張は封じられ、感じたことや伝えたいことは捻じ曲げて受け取られました。
冗談のつもりだったのかもしれません。虐待を受けていた訳ではないし、外から見れば仲のいい家族でした。
でも、その軽口は、幼い私の自尊心を壊すには、充分すぎるものでした。
私は私として生きるために、必死に女を拒否しました。

物心ついてからの十余年間に私が一番恐れていたことは、社会的な自分が「女という立場に立たされること」だった。女を降りて初めて、私は世界と対等になれたから。

そして、もう一つの原因が、性的暴力でした。

中学二年生のときです。
塾の帰りの電車で、見知らぬ男子に話しかけられました。
あまり柄の良くない見た目で正直怖かったのですが、何をされたわけでもないので、普通に会話をしていました。私の一つ上の中学生でした。彼の降りる駅が近づいてきたところで、「連絡先教えてよ」と言われました。返事をできない私に、男子は近づいてきて、耳元で「犯すよ」と呟きました。
そして私の顔を覗き込んで満足そうに笑って、ちょうどドアが開いて、彼は降りていきました。周りの大人が、私の方を見ていました。心配なのか、好奇心なのか。声をかけてくる人はいませんでした。その視線を跳ね除けるように、私は平静を装って、何事もなかったように本を読んでいました。

駅につき、改札を抜け、いつも見ている風景の中についた瞬間、身体が震えて、足が震えて、立っていられませんでした。生まれて初めて感じた恐怖でした。

私は、自分が男と対等でない存在だと受け入れられなかった。
何の前触れもなくやってきた悪意に一方的に襲われる存在だと思いたくなかった。
感じた恐怖を受け入れられない私は、麻痺することで心を守りました。
嫌がるということは、「自分が性的対象に見られている」と自覚すること。
だったら、私が何も感じなければいい。その行為に、悪意を見出さなければいい。
私は女じゃないから、その行為に傷つく理由もない、と。

本屋で盗撮されようが、
耳元で卑猥な言葉を囁かれようが、
帰り道にストーカーされようが、
公園で下半身を露出した男に会おうが、
「はいはい、私は別にいいんだけどね。でも犯罪だし通報しときます」
クールに対応して、それでおしまい。なんなら、女じゃない相手にやるなんて不運だったね、みたいな同情までかけてやる。

もちろん、これは誤った反応です。
された相手がどう感じようと犯罪だし、一方的な暴力です。
性犯罪は、忌むべき行為でしかありません。

でもその時の私には、「自分の傷を無視すること」しか、戦う術がなかった。
大したことじゃないと思い込んで、そんな行為で私を傷つけることはできない、と暗示をかけて。私は私に嘘をついたのです。

高校の時に露出狂にあって、警察に通報して被害届を出した時も、終始雑談をしながらの和やかな雰囲気でした。小部屋で調書をとられながら、男性の警察官に「自転車だったら追っかけられたんですけどね~」と悔しがり、「危ないからだめだよ」と笑いながら窘められたり、性犯罪被害者の聞き取りとは思えないような明るい会話がはずみました。調書も取り終わり、帰ろうとしたところに婦警さんが入ってきました。その婦警さんが話を聞いて、「怖かったね」、と私の肩に手を置きました。
その瞬間、私が感じたのは、激しい怒りでした。
その時は理由がわかりませんでした。今になって思うと、あれはきっと、自分を弱者の立場に置いたことへの抵抗と、目を背けていた傷をすくい上げられた怯え。

しかし、いくら女の要素を削ぎ落としても、心を麻痺させても、性暴力からは逃れられませんでした。

名も知らぬ他人から性的被害に会い続けるうちに私の中には諦めが生まれました。
社会的な「私」が女から逃れられても、生き物としての「私」は逃れられない。
この行き詰まりから開放されるために私の心が選んだのは、「家族や学校での私と、性的対象である私を切り離す」ことでした。

不条理に奪われるのは、「女」としての私。
「人間」としての私は、損なわれてはいないんだ。
私は、受けた傷をすべて、自分の中に巣食う「女」に背負わせることを選んだのです。

そして、「女」の私が求めたのは、「性的対象として見られること」でした。
男性を性的に誘惑すること。
わたしは、自ら望んでそうしているのだと、自分に言い聞かせました。
女性としての私は、ぶつけられた欲望を受け入れる存在だ。
そうやって暗示をかけることで、わたしは初めて、わたしを守ることができた。
理不尽な暴力から、逃れることができた。
これは当然のこと。だって、わたしは、性的に見られるべくして見られたのだから。

初体験はレイプでした。
ここについては、不快に思う方がいらっしゃると思います。
私は、挑発的だと思う服装をして、ナンパが激しいスポットへ一人で出かけました。
そこで声をかけられた男性にお酒を飲まされ、気付いたらその男性の家で犯されていました。
切り裂かれるような激しい痛みの中で感じたものは、安堵。
ああ、やっぱり、これまで自分が受けてきた被害は、「女の自分」のせいだったんだ。


それから、私は身元を隠して、不特定多数の男性と関係を持つようになりました。そうすることでしか、自分の女性性を受け入れられなかったから。

大学を卒業して働き始めた会社は、性別に関係なく評価される社風でした。
幸せでした。自分の出した案を正当に評価してもらえる。男性の同期と切磋琢磨して上を目指すことができる。結果を出せば給与や昇進に反映される。とてもやりがいがあります。今も、仕事は大好きです。

でも、そんな会社でも、セクシャルハラスメントから逃れることはできなかった。
服装やメイクへのからかい。卑猥な冗談、身体的な接触、性的プライベートの詮索。複数の男性クライアントが相手の接待。個人的な関係の強要。仕事帰りにホテル街へ連れて行かれたこともあります。そんな場面で、私は、不快感を表すことができません。
麻痺癖のついた心は傷つき方がわからないから、笑顔で冗談を言ったり、逆に挑発的な言動で切り返したりします。そんな私の受けはいいです。社内の上司や取引先の覚えもよく、「話のわかるやつだ」という評価をもらう。
しかし、ついさっきまでビジネスパートナーとして対等に意見を交わしていた相手が、「女」としての、性的に搾取される私を欲している。それは、私にとって耐え難い苦痛でした。

社会人になって、好きな人もできて、恋愛をしてみたいと思うこともありました。
しかし、幸せな性的接触を持つ自分が、どうしても想像できないのです。
私は、暴力でない性を、信じることができません。
「女」に弱さと痛みを押し付けて生きてきた私が、「女であること」を取り戻そうとした時、残された選択肢は「性暴力の受容」しかありませんでした。
だから、自分の女性性を確かめるために、知らない男性とレイプまがいのセックスに走ります。
一度、告白してくれた男性とお付き合いをしたことがあります。
誠実で、真面目そうな人でした。その人は、今まで性的な関係を持ったことがないと言っていました。童貞でした。
その童貞男性は、告白したその足で私の家に行きたいといい、その夜にセックスを求められました。
本当は、段階を踏んでお付き合いをして、もっとよくお互いのことを知り合った上で肉体関係を持ちたかった。人間としての私を求めてほしかった。中学生みたいな恋愛ですよね。馬鹿みたい。もういい大人なのに。
でも、それが、本当に望んでいたそのことが、その人となら、できると思ったのに。
とても嫌でした。でも、嫌と言えなかった。
荒い息遣いと、私の身体をまさぐる手の湿り気を感じながら、私はいつも通り、ぼんやりと壁の染みを見ていました。

私は、愛し愛される存在としての男女の在り方を、学んでこなかったのです。これから知る機会はあるのかな。
弱い心を守ろうとして捻くれて、途方もなく大きなツケを払うことになりました。
どこかで、嫌だ、と言えていたら。
暴力に、立ち向かうことができていたら。
暴力に、出会わなかったら。

こんなことにはなっていなかったかもしれない。

この文章を書いた意図は、啓蒙でも主張でもありません。
私は、ガワだけ切り取ると、「不特定多数とセックスする女」。
性的被害者からは程遠く見える姿です。
でも、その後ろにあるものを、見てほしかった。傷を負って、その傷から逃れようともがいている存在を、知ってほしかった。
ただそれだけです。

お願いがあります。私の考えや感じたことを、他の性的被害者の方に当てはめるのは止めてください。これはあくまでも私の痛みです。
受けた痛みは、受けた人にしかわかりません。

「犯すぞ」と見知らぬ男子に言われたことを、私はずっと誰にも言えずにいました。
しかし、一度だけ、ぽろっと話したことがあります。
相手は、なるほど、と呟いてから、しばらくして言いました。
「それぐらいは冗談で友達に言う年頃だしなあ」
そして、付け足すように、護身術や防犯グッズなどをスマホで検索して見せてくれました。もちろん、自衛は大切なことです。望んで犯される私が言えた話じゃないですが。身を守れるに越したことはないし、被害にあう確率は小さければ小さいほどいい。
でも、性暴力は空から降ってくるカラスの糞みたいに、唐突にやってきます。
その糞に当たってしまった私がほしかったものは、心の傷に寄り添ってくれること。
辛かったね、という一言。ただそれだけでよかったのに。

露出狂の被害届を出したあの日、婦警さんが家までパトカーで送ってくれました。
私は全力で、声を荒げて拒絶しました。
親に、私が性被害に会うような弱者だと、絶対に知られたくなかった。
でも、夜遅く私は学生だということで、送られることになった。
車内で婦警さんに、親には言わないでほしい、と泣きながら頼みました。
婦警さんは、少し黙ってから、「でも、言ったほうがいいから」と私を宥め、私は絶望で窓の外を呆然と見ていました。
家に着き、婦警さんが両親に説明をしようとしているのを横目に、私は自室に戻りました。
そのまま眠り、朝起きて、リビングで朝食を食べる。
何を言われるのかと、はらはらしていました。
でも、結局、何もなかった。それどころか、昨晩のパトカーの帰宅は幻だったかのように父も母も、誰も、何も言いませんでした。
二日経っても一週間経っても、何も言われませんでした。体調を心配されるようなことも言われませんでした。
なかったことにされたのです。私を慮ったのか、何を言うべきか分からなかったのか。
確かに、私は、知られたくなかった。
でも、知った上で目を背けられるというのは、それ以上の絶望でした。
心の何処かで、私は、家族が自分を守ってくれると、自分の痛みを分かってくれると期待していました。でも、あの夜、私はその希望も一緒に失ったのです。
ただ一言、だいじょうぶ、と、聞いてくれるだけでよかったのに。

わたしは、性暴力を無くすことは無理だと思っています。異性への接触を禁じようがセクハラの基準を引き上げようが、人間が存在する以上、悪意は形を変えて襲い掛かります。

性暴力の本質は、「相手を不快にさせる・傷つけること」。
相手が不快に感じれば、それは暴力。と言うと、「そんな事を言っていてはおしゃべりもできなくなる」という反論が来る事があります。実際にありました。
それは、主語の拡大解釈です。相手=女性と、勝手に置き換えているから。
自分の行動を、目の前の相手が、どう感じるか。
それを考えることが肝要だし、ひいてはコミュニケーションの本質でしょう。
だから、私は、悪意のないセクハラは一発アウトではないと思います。もちろんあからさまなのはダメですが。人によって感覚に差があるのだから、エスパーでもない限り、そのラインを読み間違えてしまうことが罪ではないでしょう。

大切なことは、女性が、社会が許すかではなく、目の前の人間が、どんな気持ちになるか。性暴力の最も卑劣な点は、人間としての相手を無視していることです。
社会だから、常識だから、女だから、男だから。
そういう実態のないもの、自分に責任のないものを隠れ蓑にして欲望を正当化する人間を、わたしは軽蔑します。

だから、目指すべくは、不快だと感じた時に、きっぱりと不快だと主張できること。
私のように、不快だと感じる自由すら失ってしまう前に。
そして、その主張を封じない社会であること。自分の物差しでなく、相手の声に耳を傾けること。他人の感覚に敬意を払うこと。

そのためには、自分の「力」に自覚的であること。

『先生と白い嘘』に、インポテンツになった男子高校生、新妻くんが出てきます。
彼は、バイトリーダーの中年女性にホテルに無理やり連れ込まれ、雰囲気にのまれ、嫌と言えずにセックスをし、それがきっかけで勃たなくなります。
新妻くんは、「自分が女性を侵す力を持った存在であること」を罪だと感じるのです。
確かに、形だけ見ると、望んで中年女性を犯したことになります。
でも、そこで断れば、バイトを辞めざるを得なかった。
新妻くんは、男女の腕力差以上に強い力で、屈服させられた。社会的な力で。

男女、師弟関係、上司部下、元請けと下請け、階級差、大口の取引先。
力の差がある関係性は、私達の周りにあふれています。
「力」とは、「相手を圧することができる力」です。
やるかやらないか、ではなく、できるかできないか。
「相手は自分を侵すことができて、自分はそれに対抗する術を持たない」。
この暗黙の前提がある以上、弱者の自己責任論は意味を為しません。
そもそもアンフェアな立場であることを踏まえ、自分の発言に「力」の強さが上乗せされていることを自覚し、その上でコミュニケーションを取ること。
それが強者の責任だと、私は思います。

山口メンバー事務次官も、圧倒的な「力」を持っていました。人脈だったり、社会的な身分だったり、業界での立ち位置だったり、相手に対する優位性です。それを利用した。

自分が持つ力が相手に与えうる影響に無自覚な人間は愚鈍です。
自覚した上で、それをあからさまに使用する人間は卑劣です。
自覚した上で、無自覚のように見せかけながら相手に悟らせる人間は、醜悪です。

わたしに、犯すぞ、と言った男子へ。
あなたは覚えてないでしょう。
もう十年前のことだし、初対面の女だし、ましてや冗談のような、暴言とも言えるか曖昧なほどの一言。

でも、わたしはあのとき、怖かった。
自分へ向けられた悪意が。
自分が、ただ電車に乗っているだけで侵されかねない存在だということが。
わたしは、あの日、初めて、自分が弱者だと突きつけられたんです。
わたしは、自分が女であることを憎みました。
女だから。女のせい。女というだけで。

でも、わたしが悪いわけじゃなかった。
もちろん、女のせいでもない。男のせいでもない。

本当に憎むべきは、あなたがぶつけてきた悪意だったのに。

あの日のわたしが本当にするべきだったのは、声を上げることだった。
わたしはその行為を認めないと、拒否することだった。自尊心を守ることだった。

「わたしは理不尽に傷つけられない」という人としての尊厳を、手放すことではなくて。

こんな簡単なことがわかるまでに、こんな長い時間がかかり、取り返しのつかない傷を負ってしまいました。

わたしの心は、あなたの一言だけで破壊されたわけではありません。でも、あなたが私に言った四文字が、川に置いた小石が流れをせき止めやがては陸を削るように、私の心を削っていったのです。

なんだか男性嫌悪のような文章になってしまいましたが、その意図は全くありません。
男性の素敵な友人、同期、上司、知人に囲まれていますし、個人としての彼らのことは大好きです。
ただ、男女という関係性になった時に、私の心が付いてこられないだけで。

 

生きていて思うのは、不快な性的コミュニケーションを、仕方ないと諦めている女性がいかに多いことか。
そしてそんな女性を、大人だ、いい女だ、心が広いねと賛美する声が、いかに多いことか。

結構びっくりしたのが、女性も同じことを言うんです。
そんぐらい我慢しなよ。男って結局そんなもんだよ。そんなんじゃやってけないよ。それ、考えすぎじゃない?

違うんです、それは間違ってると思うんです。いや、世の中に正解も不正解もないんだけど。わたしが、世の女性を代表してるわけじゃないし、するつもりもないけど、でも、それでも、わたしは、痛みを享受するような諦めは間違っていてほしい。「女である以上仕方ない」と、受け入れないでほしい。
そんな、わたしたち、猛獣使いじゃないんだから。
男の欲望を飼い慣らして「上手くやる」んじゃなくて、人間同士として、お互いに傷つけられないという当然の権利を手にしたい。

それはすごく難しいことだと思う。
だって、コミュニケーションに手抜きできないから。
社会とか男とか女とか、大きな主語の威を借りずに、一対一で向き合い続けなきゃいけないから。すごく難しいし、しんどいし、面倒臭いと思う。
でも、わたしは、世界がそうあってほしいと思います。

 私は女性なので、どうしても男性から受ける性暴力に目が行きがちです。でも、女性からの性暴力に苦しんでいる男性も、絶対にいると思う。そして、性暴力に苦しむ男性は、おそらく、女性よりも声を上げづらい立場にいるのではないか。そんな男性の手を、私は取りたい。一緒に声を上げたい。

男とか女とか、そういう枠組みを超えて、同じ人間として、私は理不尽な暴力と闘いたい。

最近になって、ようやく、前を向こうと思えてきています。
性的逸脱行為は収まってはいませんが、頻度は減ってきています。
まだまだ道のりは遠いですが、いつか、愛される存在としての女性性を経験してみたい。そう思って、少しずつ少しずつ、まだ言うことを聞かない自分の心と向き合っています。

長くなりましたが、どうか、この文章が、どこかで苦しんでいる誰かの希望になりますように。
同意でも反論でも非難でも同情でもいいから、性暴力について考えるきっかけになりますように。


そして、私にきっかけをくれた、鳥飼茜先生に感謝と敬意を込めて。

2018/5/1